2016.06.29 「皇海山紀行」について  その2

 
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 木暮氏らは、原集落から国境尾根へ向かう餅ヶ瀬川の左岸尾根を登るのだが、この尾根は10kmにも及ぶ長い尾根である。この間の標高差は1300mになる。登山の計画は、さらに国境尾根を西へ、砥沢集落に降りてから皇海山へ登るという計画になっている。この間の水平距離はおよそ10km、砥沢集落から皇海山への標高差は1000mもある。したがって、木暮らは、水平距離20km、標高差2300mを辿る「壮大」な登山を企てていたことになる。
 
翻って、現在の登山を考えてみれば、およそどの登山も林道を最奥部まで車で入り、できるだけ頂上までの標高差を小さくし、最短でピークをとらえてさっさと下山する、というような場合が多い。
 
当代一の登山家のコースと現代登山のお手軽登山を比較しても仕方ないかもしれないが、この差はあまりにも大きく、驚かないわけにはいかない。例えば、現在の皇海山登山は、林道を車で栗原川の源流まで入り、標高差800m、水平距離3kmほどの登山道を歩くコースになっている。
 
木暮らの歩いたルートは、登山道ではない。林業やそのほかの用途のために拓かれた山道を歩いたのである。ルート図のAから先は、道が途絶えたために迷い、地形図を見ながら径のない山中を彷徨ったものである。
 
雨が降り道に迷い、八林班沢を下るのをやめ、「上州峠」を越えて山道を下ろうと計画変更した。だが、方向を失ってBにたどり着いた。この「上州峠」とは、今の六林班峠ではないかと考えられる。二人は、磁石を持っていなかったために、国境稜線を北へ向かっていたと思っていたが、いつの間にか反対に進路を取り、思わぬ場所Bへ辿り付いたというわけである。
 
すでに日が暮れかかっていた。稜線の鞍部Bからは、「前方右手の谷間に火の光が明るく雨や霧ににじんで見える。」が、そこまでは辿り着けないと悟り、鞍部Bでビバークせざるを得なかったのである。

 
木暮ら二人の山行は、現在の感覚では無謀なものと言わざるを得ない。磁石も持たず、登山ルートの確認もせずに深山へ分け入ったのである。実際、方角を失って山中を彷徨うことになった。ビバークしたBは、偶然にも八林班沢源流の鞍部だった。二人が現在地を知ることになるのは、前夜に火の明かりが見えた集落へ降りて、土地の者に、そこが「砥沢」であることを聞いた時である。
 
この一見無謀と思える登山を実施したのには、現在の山へ入る感覚とは異なる当時の人の考えがあったのだろうと思う。現代では、山の奥深く分け入る行為というのは、無人の地へ向かうという感覚が伴うが、当時ではそういう感覚が無かったのではないか。
 
山というのは人の住む領域である、いくら山深く入ってもそこには人が居る、という観念が一般的だったのではないかと思う。そうでなければ、磁石も確かな情報も持たずに無人の山へ入るはずはないと思うのだが、どうだろうか。
 
二人は、B地点でビバークした翌日、八林班沢を下って辿り着いた砥沢集落で、宿を求めて飯場を借りて泊まった。次の日も、もうすっかり暗くなった「六時二十分」に六林班峠の「鉄索運転所」の事務所にやはり宿を求め、空いている小屋を借りて宿泊している。この六林班峠では、「事務所の浴室に案内されて湯にも入った。」とあるので、驚きである。
 
飯場を借りた砥沢集落では、皇海山への登頂ルートを、現地の人間に聞いている。「不動沢から登れるそうだ」、「伐採が入っているので、路があるかもしれない」との情報を得て、二人は皇海山を目指したのであった。
 
これらの二人の行動は、最初からそこに人が居るという前提で取られているようにみえる。一夜の泊りを願い出ることや登山ルートそのものを聞き出すことは、最初から想定したことであると思われる。山へ入り、そこで人に会い、泊り場を得て山の情報を得てルートを拓いていく。これらは、その山に人が住んでいなければ、できないことであるし、それだから人の歩く径もある。二人は、そういう考えに基づいて行動していると思われる。
 
二人の行動範囲が現代の登山に比べて「壮大」であるのは、二人の意欲や体力が優れているばかりではなく、山に人が住んでいる、という結果によるものだと考えられる。このことが、現代には無い、当時の登山の特徴であったといって良いだろう。
 
先日われわれが歩いた足尾の栗原川砥沢や男鹿の小蛇尾(こさび)川の支流には、現在の感覚では、とうてい人の住むところだはないと思われる山中にも人が住んでいた、そういう形跡があるのだ。
 現代のわれわれにとって山は異界であるが、木暮氏らが山を歩いていた時代には、山は里と同じに人の住まう領域だったのである。そういう点から考えれば、木暮氏らの行動は、登山というよりは「山旅」だったと考えられる。



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