2016.06.23 「皇海山紀行」について  その1


 木暮理太郎氏の文章に「皇海山紀行」というのがある。大正8年(1919年)の登山記とあるので(『山の旅』岩波文庫)、氏が46才の頃だ。もう100年近くも前の紀行である。
 私は木暮理太郎という人を良く知らないし、当時の登山事情も良く分かっていない。だが、この文章を読むと当時の登山のありようが良く伝わってくるので面白い。ただ、この文章は、自然や山の美しさを格調高く謳い上げたものでも、ガイド風に足尾山塊の風光を紹介したものでもない。
 
「皇海山紀行」は、当時ほとんど登られていなかった皇海山へ登った時の粗い記録になっている。同行者は、『山の旅』岩波文庫、2003年第一刷では「藤崎君」とあるが、おそらく藤島敏男氏のことで、これは誤植だと思われる。
 
この時の登山ルートは、足尾線の原向駅で降り「原」の北側の集落に泊ったあとを、次のように記している。

    自分らは、五万分の一足尾図幅に、原から根利山へ向かって点線の路が記入して
   あるので、それを辿って先ず国境山脈に攀じ登り、南進して1957mの三角点をき
   わめ、引き返してその北の一峰から西に沢を下り、地図の道に出て砥沢へ行き、翌
   日何処からか皇海山に登ろうという計画であった。
 

 足尾線というのは、いまの渡良瀬渓谷鉄道のことで、いまでも原向駅という駅がある。「原」というのは、原向駅から渡良瀬川の右岸へ渡り餅ヶ瀬川の出合へ向かうとすぐある集落のようだ。いまでも、原という地名は残っているので、ここのことだろうと思う。この原の北側にギリメキ(切幹)という集落がある。二人はこの集落の宿に泊まったとある。ギリメキには数件の宿があったようだ。
 
根利山(ねりやま)とは、少し調べてみると、当時は皇海山に連なる山脈の西側の呼称だったようだ。原から根利山へ向かう「点線の路」は、二人の記録を辿ってみれば、国境稜線から餅ヶ瀬川の左岸に沿って派生する大支脈に延びていたようだ。この支脈には、巣神山、小法師岳のピークがある。
 
1957mの三角点」とは、現在(2016年)の地形図にある1958mの三角点のことだろうと思う。この三角点から北へ向かった峰から「西に沢を下り」とある沢は、地形図から判断すれば現在の八林班沢と考えられる。この八林班沢は、栗原川砥沢の源流である。八林班沢が砥沢に合流するところでは、六林班沢が分岐する。この二俣に挟まれた丘陵に「砥沢」という集落があったようだ。木暮氏がいう「砥沢」とは沢のことではなく、「砥沢集落」のことである。
 
当時、足尾銅山で使う用材を山から伐採して、索道を使い足尾の銀山平(ぎんざんだいら)まで輸送する事業があった。砥沢集落は、その中核的な役割を果たした村のひとつであったようだ。根利山の山中には、830人の作業者が、家族含めて1500人が住んでいたとある。子供たちのために平滝と津室に学校があり、一時は合わせて130人の生徒がいたというから驚きである。根利山の伐採を尽くし、事業が昭和13年に閉山になるまで学校が続いたという。いまでは、根利山は完全に無人の山になっている。
 
平滝(ひらたき)は以前三俣沢のス沢を歩いた時に、津室(つむろ)は小田倉沢を歩いて津室沢を下った時に、その集落跡を見たことがある。こんな山深いところに人が住んでいたのだろうか、と思うようなところだった。砥沢集落は、平滝からの索道を中継して、足尾の銀山平へつないでいたのである。津室はその中間にある集落であった。

 
話がだいぶそれてしまったが、「皇海山紀行」に話を戻そう。木暮氏一行の登山ルートをその文章から類推すると下図のような具合になる。1117日から20日にかけて歩いた三泊四日の登山である。
 
登山記録の粗い文章からどこを歩いたのかを推理するのはなかなか面白い。ほとんど一日をかけて文章を「解読」して、ルートを調査した。現在の整備された道を歩く登山とは違う。無名のピークや沢そして分岐点を渉猟する山行である。本人たちでさえどこをどう歩いているか分からないような山行の記録である。その記録から歩行ルートを探るのは、難しいパズルを解くのに似ていて面白い。





 このルート図と木暮氏の文章から、当時の登山がどんなものであったかを知ることができる。現代の一般に考えられている登山とは大分異なっている点に興味がある。
1)山中に泊り、山から谷へ広範な領域を歩いている。
2)登山道は無いが、人の歩く径があることを想定して歩いている。
3)山中には宿泊設備がないが、人の居る小屋にたのんで宿泊している。
4)詳細なルート計画を準備しているのではなく、現地で人に尋ねてルートを判断している。
5)山は無人の地域ではなく、人の住む領域として捉えている。
6)峠と沢をルートに組み入れている。
7)装備が貧弱である。ビバークの装備は無いに等しく、粗末な合羽や傘をかぶる野宿をした。磁石は持参していない。ただ、時計は携行したようである。

                  
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