2016.01.09 徒然草三 **一書一言**
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 『徒然草』が現代に通じるのは何故かと考えてみれば、ひとつの結論は簡単である。人の世の常識、生き方は根本のところにおいて、現代も当時も大して変わらない、というものである。人の歴史を見てみれば、700年などというのは一瞬のうちに過ぎない、とも言えるのではないか。
 『徒然草』の作者、吉田兼好は兼好法師とも呼ばれるように、僧侶である。ものの本によれば、『徒然草』の時代は、それまで貴族のものであった仏教が、庶民の生活に入りこんでくる時代だったともある。当時、仏教の世界観を血や肉とした庶民の生き方が、今の自分に受け継がれていると思えば、『徒然草』も彼方のものではないのである。
 『徒然草』で、今の自分に強く訴えてくる言葉は、死に関わる文頭のことばである。


     欲望を成就してのちに、余暇があったら道を修(しゅう)しようという気では、欲望
    は 際限もあるまい。幻のような人生において、成就するに足る何事があろうぞ。いっさ
    い欲望はみな妄想である。241


 吉田兼行は、「人の楽欲ぎょうよくするところは、第一に名誉である。・・・・第二は色欲である。その第三は飲食物に対する欲である。いっさいの欲望は、この三つをもって最上とする。」というが、兼好の言わんとすることは、欲望を抑えよというのにあるのではない。今風にいえば、命のある我が身であるのだから、命を大切にしろ、命とは時間であると語っているのである。兼好のいう命とは人の生とは、あやしくはかないものである。

     (京の祭りの)桟敷の前を往来する人に顔見知りが多いので気がついた。世間の人の数
    というものも、そう多いものでもない。これらの人がみな失せるであろう。我が身として
    も死なねばならないに決まっている。最後にしたところで、まもなく自分の順番がくるこ
    とであろう。大きな器に水を入れて小さな孔
あなをあけたと仮定して、滴ることは少しで
    あるが、休むまもなく漏れてゆくから程なくすっかりなくなってしまう訳でしょう。137


     人生の生老病死の推移のくることも、その早さはそれ(四季の移ろい)以上である。四
    季の推移には、それでもまだしも一定の順序もある。死期は順序も待たない。死は前方か
    ら目に見えてはこない。あらかじめ背後に切迫している。人はみな、死のあることは承知
    しているが、今にとのんきにかまえている人に対して不意を襲う。155


 『徒然草』の主調は、「無常観」である。これについては、改めて言うまでもないだろう。常なるものは無し、刻々と月が欠けるがごとく歳月は移り、命の水は涸れて行く。不可逆的な時間の移ろいを覚悟しなければならない。死を忘れずに、死を恐れずに為すべきことを為せ、と兼好は繰り返し言う。

     それゆえ、自分の生涯で主要な願望のなかで何が最も重大かをよく思いくらべたうえで、
    第一の事をよく決定し、他のいっさいは放棄して、その一事を励むべきであろう。一日の
    中、一刻の間にも幾多のことが起こってくる中で、すこしでも益のあることは実行して他
    は放棄して大事の実現を急ぐべきである。何もかも捨てまいとする心もちでは、結局、何
    一つ成就するものではない。188


 兼好のことばに向かえば、自分がいかに日々無為の時間を暮らしているかに気付かされる。
「いっさい欲望はみな妄想である。」
 人の生は限りあるものである。際限のない欲望に振り回されていては、大切なことを為す時間が失われていく。こまごまとした些事を、欲望を捨てよ、大切なひとつのことに集中せよと。
 ここまでは、理路整然として分かる。大切なものが、自分の背後に高速度で消えていく。として、私は何を為すべきなのか。兼好には、仏道という本道があったが、私の本道は何なのかとふと思う訳である。命の時間を大切にするとして、自分が何を為すべきなのかそれが分からない。考えてみれば、致命的である。60才を過ぎて老境に入ろうとするに、自身の為すべきことさえ確かに分からない。
 『徒然草』のことばにひかれて、考えることがあったが行き止まりだ。ただ、『徒然草』が、自分にとって無駄だった訳でなく、結局、為すべきことのある兼好の生き方が、偉大だったということに気付く。ひとつの書物を読んで、その言わんとすることを実践できるならば、苦労はないだろう、というのが自分への慰めである。(完)
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