2015.12.29 徒然草一 **一書一言**
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     いっさい欲望は妄想である。

 700年ほど前に書かれた著名な随筆に収められたことばである。このことばは、次のようなことばに続けられたものだ。

     欲望を成就してのちに、余暇があったら道を修(しゅう)しようという気では、欲望
    は 際限もあるまい。幻のような人生において、成就するに足る何事があろうぞ。いっさ
    い欲望はみな妄想である。241

    *引用は、『徒然草』吉田兼好 佐藤春夫訳 河出文庫、数字は段数を示す。(以下同)

 何を語っているのか判然としないので、さらに前の文章に眼をやると、およそ次のような意味の文章に出会う。
 人というのは、死に向き合っていない間は、とかく人生というものはいつもと同じに続くと思いがちである。生涯のうちに、できるだけ多くの事業を為して、その後に落ちついて仏道の修行をしようなどと思っていると、病に罹ったりしてしまうものである。
 さらに文章が続く。


     その時かえりみれば、平生の志は何一つ成就していない。このたび命をとりとめ て全
    快したら、昼夜兼行このこともあのこともつとめて完成しようという念願を起こすようで
    あるが、ほどなく病が昂(こうじ)
ては我を忘れて取り乱して終わる。人間はだれしもこ
    んな風である。241


 日々の生活がいつものように続くというのは錯覚であり、何一つとどまるものはなく変転しているものだ、として、次のようなたとえ話をする。この著者の自然を見る目を感じさせてくれる。

     十五夜の月の円滑な形も、一刻も固定的なものではない。すぐ欠けてくる。注意深くな
    い人は、一夜のうちにだって月の形がそれほど変化してゆく状態などは、目にもとまらな
    いであろう。241


 『徒然草』という随筆集があるのは、私も日本人だから良く知っている。だが、今までその頁をめくったことが無かった。『徒然草』を開くきっかけは、ある人の随筆集を読んでいて、次のようなくだりを見つけて感心したことにある。

     これらの手仕事は、いつも炎天の中で支度され、朝夕にきざしてくる新たな季節の潮目
    にせかされつつ進められたものであった。

     徒然草にいう「春くれて後夏になり、夏はてて秋のくるにあらず、春はやがて夏の気を
    もよほし、夏よりすでに秋は通ひ・・・・」と。私たちが手仕事とともに季節を生きたこ
    とは、私たちの時代の知られざる財産であるかもしれない。

                       『ゆかりの林檎』小川アンナ随筆集 1991年

 「これらの手仕事」とは、洗い張りとそれによってよみがえらせた布地を着物や布団に縫い直すことである。「夏の終わりに」という随筆のなかで、納屋の古物を片付けているときに古い張り板が出てきて、その思い出が回想される。「母が張り私が張り張り上がればつつましい心になって、裁縫の下手な私でさえ針を持ったものである。」
 いつの年もまだ暑いうちに、涼しい風の吹き始める秋に向けてその支度を進めたということだろう。今を過ごす季節の中に次の時季を感じ、必要で大切な手仕事をする。そのようにわれわれは、季節の変化を敏感に感じ取りながら、日本という風土を生きてきたということだ。
 洗い張りとは、まだ普段に着物を着ていた時代に、仕立て糸をほどいて着物を洗い糊付けをして再生する方法である。そんなことばは、もう死語に近いだろうが、私が小さい頃に母親がやっていた情景をかろうじて思い浮かべることができる。まだ十歳になる前のことであるから、もう六十年近くも前のことである。
 さて、「手仕事」にこれ以上深入りをするつもりはない。『徒然草』にもどろう。(つづく)

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