2015.05.06 子猫のこと

 この冬、小さな野良猫が二匹、家の周りを歩くようになった。庭木の下に凍えるように座る子猫を見たことがあるという。そのうちいつの間にか、子猫を見なくなった。いつもの冬ならまだしも、早い時期に親から離された子猫が、今年の冬を越えるのは難しかったのだろう。今年の冬はいつになく厳しかった。

 爽やかな晴れの日が続く五月連休の最終日だった。庭に居た家内がガラス越しに何かを言っている。「ねこが死んでいる。」と聞こえる。おやっと思って、硝子戸をあけて聞き直すと、「ねこが死んでいる。」と言う。家の壁とエアコンの室外機の狭い隙間を指している。どうしたらいいだろう。そう思いながら、覗いてい見ると確かに猫だった。狭い所なので、よくは見えない。だが、猫であることは間違いないようだった。

 このままにする訳にはいかないだろう。困ったな。とっさに二つのことを考えた。ひとつは、市役所に連絡して始末してもらうこと、そしてもうひとつは家の庭に埋める方法だ。ただ休日なので、市役所には担当者がいないだろう。市役所が片付けてくれるものかどうかも分からない。
 私は、生き物を飼うのが嫌いだ。少年の頃、かわいがっていた犬が死んで、「生き物は死ぬ」という大きなショックを受けたからだ。今では、確かな場所を忘れてしまったが、家の庭に埋めてやったのを覚えている。その頃は、どの家でも飼い猫や犬を庭に葬っていた。もう昔の話、盛岡に居た頃のことだ。
 庭に埋めるのが良いだろうと、これもとっさに思った。とはいっても狭い庭だ。場所がある訳でもないので、そう迷うこともない。結局は、南東のはずれ、わが家の一等地に決めた。長女が誕生した時に植えた白いバラの隣だ。昨日その長女の子が二人で遊びに来た。下が二歳だ。西側の角も空いていたのだが、やはり葬るには明るい場所が良いだろうと思った。なぜだかそう思ったのである。
 池田晶子さんの「人生のほんとう」という著作を読んでいたせいなのだろうか。生まれてこの世に生きる奇跡、人と出会いいっときを共に過ごす奇跡、つまりは生きて在ることは、「縁による」としか言いようがない、というようなことが書いてあった。この猫が、わが家の軒下で果てたのも「何かの縁」だろう。
 庭に穴を掘った。スコップを上げるたびに土の匂いがした。最初はスコップが入ったが、じきに木の根に当たるようになった。植木の根が伸びているのだ。細い根は切り進み、太い根は残した。少し苦労したが、家内と二人で小さな穴を掘った。死骸を見る限りそう大きなものではない。これだけ掘れば十分だろう。庭の南東に小さな穴があいた。
 さて、厄介だが、死骸を穴まで運ばなくてはならない。家内はゴム手袋を出してきたが、「いや、これにしよう。」そういって、庭に立てかけてあった火ばさみを取った。たまに使う焚き火用のものだ。仏に火箸とは少し失礼とも思ったが、どんな病で倒れたのか分からない。用心した方が良いだろう。そう思った。火ばさみで持ち上がらなかったらどうしよう。そんな心配をしながら、亡骸(なきがら)を挟んで持ち上げた。思いのほか軽い。「持ち上がるな。」と思った。首尾よく狭い隙間から亡骸を引き出すことができた。せんべいのように乾いていた。毛が少し抜けた。
 「かわいそうに。」と家内が言った。猫は後ろ足と前足をそろえて横になった姿だった。その足がとても小さい。そのそろえた小さな足を見て涙があふれた。何故だか分からないが、はからずもそうなったのだ。ついさっきまで汚物と思っていた猫の死骸が、思いもかけず私の心を揺さぶったのだ。
 溢れるものは止まらなかったが、そのまま小さな穴へ子猫を納め、静かに軟らかく土をかけた。わずかに盛り上がった小山ができた。家内がうしろで合掌していた。「かわいそうに。」と言ってまた泣いた。私は涙を見せないように家へ上がった。



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