2015.01.06 尾根の下り方3

 「ドブ沢でも歩いていれば楽しい。」と、うっかり気を許して言ってしまったことがある。ドブ沢とは、多くの遡行者を魅了する有名どころの沢ではなく、名の知られていない小さな沢のことである。まだ沢を歩いて間もない、どの沢を歩いても興奮、感激していた頃だった。そんな初心者の言葉をあっさり否定して、相手は、「中級の沢を歩いていない者の言うことだ。」、と言った。納得できる言葉ではあったが、どこかに棘があった。相手は沢のベテランで、沢登り教室の講師だった。沢歩きにも階層がある、と認めている者がいることを初めて知った。同じその講師に、「沢は壮大な遊びですね。」と言ったら、言下に「沢は遊びなんかじゃない。」と否定され、どうしてかその沢登り教室を退会させられた。その講師は、とても怒っているようだった。”壮大な遊び”とは、最大の賛辞のつもりだったが、その講師は「沢は遊びじゃない。俺の命だ。」と言いたかったのかも知れない。恐ろしい勘違いだと思った。言葉が通じない相手があることを知った。

 田代沢は、ドブ沢といって良いだろう。丹沢の中でもほとんど知られていない沢だ。その方面のわずかな篤志家(マニア)が歩いているに過ぎない。沢を歩くということは、基本的に未知の領域を歩くことだと思っている。未知のドブ沢を歩くのが尊いのか、良く知られた中級の沢を記録を頼りに歩くのが尊いのか、こんな問いをかけたくなる。さて、どちらが尊く価値のある行為でしょう。「未知のドブ沢」と言いたいところだが、「どちらも」というのが正解だろう。答えはひとつしかないとは限らない。歩く者が自らの判断で対象の沢を選択して、自らの力量でアタックする。そういう行為すべてが尊い。もともと自然の沢には尊卑が無い。そう考えたいものだ。
 田代沢は、丹沢湖の東端に注ぐ小菅沢の支流だ。小菅沢はダムのできる前は玄倉川の支流だったのだろう。丹沢ビジターセンターの角から舗道の秦野峠林道を東へ入る。左手に見えるのが小菅川だ。小菅川を立派な橋で渡った先にゲートがある。2台ぐらいなら車が停められる。ゲートから田代沢出合いまでは30分ほどだ。
 田代沢は、小さく短い沢だが、ところどころピカッ、ピカッ、と光るものがある。沢床と両岸は岩盤でできた沢なので、他の西丹沢の沢と同じように水は澄んでいる。下流部には、小さな滝も続く。この田代沢の下山で、踏み跡のない尾根を下ったが、ちょっと怖い思いをしたので記録を残しておこう。

 田代沢の本流は、標高640m付近の二俣で右へ入る。二俣の300m先、秦野峠林道にかかる田代沢橋の下で遡行終了となる。この二俣と田代沢橋の間は穏やかな流れになるので、退屈だろう。そう考えて、二俣から右岸を秦野峠林道へ向けて上がることにした。思いがけず、この登りには経路があった。山仕事に使う路なのだろう。この作業道を上った秦野峠林道の手前には大きな広場がある。この広場の西端が田代沢の右岸尾根に続いている。下ってみると、ヤブのない見通しの良い尾根だった。





 事前に検討した下山ルートは、660mで北西の枝尾根に下り、そのまま小菅沢まで降りて、小菅沢の右岸を登り返して、秦野峠林道へ上がるというものだった。ちょっと複雑なルートだったが、秦野峠林道を辿るよりも早く下山できると考えたのである。ここは北西の枝尾根に入らず、そのまま田代沢の右岸尾根を下る方法もあると思うが、地形図を見ると小菅沢へ降りる最後の斜面がきつ過ぎて、かなり苦労すると思われた。事前に検討したルートは、小菅沢への下降が緩やかで、そういう苦労が無いと考えたのである。



 実際に660mで北西の枝尾根に下ったルートでは、小菅沢への下降は穏やかなものだったが、それ以外のところに幾つかの問題があった。まず、660m付近で北西の枝尾根に入るところで、ちょっと迷った。広場へ上がった辺りで高度計の誤差を押さえておくべきところを、うっかり忘れていた。この誤差を正確に把握しておけば、田代沢右岸尾根を下る途中で、北西の枝尾根に入る地点をかなり正確に知ることができたはずである。事前検討した地形図から、北西の枝尾根は比較的簡単に見つかるものと思っていた。地形図には、他に顕著な尾根が見られなかったからである。だが、現地に立つと、同じあたりに彫の浅い尾根が幾つか同じ方向へ延びていた。どの枝尾根を下るか迷った。考えてみれば、今までの経験でも、こういうことは良くあることだった。
 北西の枝尾根へ入る正確な地点は把握できていないが、およその見当は外れていない。枝尾根を下りながら地形を見て行けば、予定のルートを外れずに小菅沢まで降りられると思った。地形図を見る限り、左右の沢に挟まれた枝尾根を下れば良いのだから。
 およその見当で枝尾根のひとつを降りた。だが、早々に傾斜がきつくなり、まっすぐ降りるのが難しくなった。「うーん。間違えたのかな。」などと考えながら下るものだから、だんだん自信がなくなってくる。尾根をひとつ間違えているのかもしれないと思い、右手の尾根にトラバースする。だが、こちらも尾根伝いに下るのは難しい。下降しやすい地形を求めて行くと、さらに右へ追いやられた。途中、急な窪をトラバースした。そしてついには、ロープを出してアリ地獄に入るように深い沢に押しやられた。上流にはすぐコンクリート製の堰堤、下流には深い谷が見える。ゴルジュのようだった。現在地は、もう分からなくなっていた。「これはいけない。」そう思った。安易にルートを外れた末に、難しいゴルジュ突破を強いられた。
 慎重にゴルジュを下る。何とか降りることができたが、ゴルジュの先は、思っていた通り切れ落ちていた。6mほどの滝になって、左手から流れる沢に合流しているのだった。ドブ沢と踏んでハーケンを持たずに来た。支点が取れなければ下降が難しい。だが、丈夫なブッシュがベストの位置にあった。幸運だった。だが、合流した先には、コンクリートの堰堤が続いている。どうやってあの堰堤を降りるのだろう。さらに先の心配をしなければならなかった。堰堤の付近には、まず支点は無いだろう。
 だが幸運なことに、堰堤のすべてに梯子が付いていた。コンクリートに埋め込まれた例のやつだ。表面が樹脂で覆われた立派な梯子だった。心がいっぺんに晴れ渡った。もう何も心配はいらない。梯子をしっかり掴んで降りるだけだ。幾つか堰堤を降りて、難なく小菅沢に立った。安心して小菅沢の広い河原に座り、ゆっくりと休憩時間を楽しんだ。


行く手はゴルジュ どうやら滝がありそうだ 運良く支点が取れ、懸垂下降する


【教訓】
1)標高の分かるポイントで、高度計の誤差をこまめに確認すること。
2)地形図に表示されていない尾根もある。
3)尾根は必ずしも下れるとは限らない。
4)安易に流されると、ルートを外れる。
5)沢には、地形図に表示されていない堰堤がある。
6)沢へ追いやられる下山は避けるべき。

                    (つづく)尾根の下り方4へ




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