2013.11.28 ひとりで歩くU


 最近はひとりで歩くことが多い。だが、好んでそうしている訳ではない。元来私は、気の合う少数の仲間と歩く方を好む。沢を歩く時は、それなりのリスクがあるので、同行者を求める気持ちは自然に働く。だが、そうならないだけである。自ら”ソロイスト”などと気取って、ひとりで歩くことを求める者もあるようだが、そういう志が私にある訳ではない。そもそもそんな実力が無い。ただ、いつもひとりで歩くことに”なってしまう”だけである。
 幾つかその理由はあるのだろう。ひとつは、身近に一緒に歩いてくれる仲間がいないということだ。シーズンには首都圏以北の仲間と歩き、地元に同好の士がいないこと。またひとつは、人を誘うことによって起こるだろう相方の煩わしさを好まない。誘われた者は、都合がつかなければそれなりの理由で断りを入れてくるだろう。そういう相方の煩わしさを私は好まない。避けようとする。そういうのを遠慮というならば、私は遠慮深い人間といえる。もうひとつは、同行者がいなくても、沢を歩くという気持ちが少しも萎えないことである。「誰かさんが行かないから、私も行かない。」と言う気持ちが働かないのだ。人のことを頼りにしない。これは、私の顕著な特徴だと思う。
 沢を歩く者には、自ら遡行を計画して歩く者と、ひとの計画に相乗りをすることを好む者とに大別されるようである。初心の者が計画できないのは自然なことだろうが、長いこと沢を歩いてきた者でも、自ら計画しない者は多い。もっともこれは、沢の歩き方というより、ひとの生き方に関わるものかもしれない。計画する者、賛同する者、両者によって沢登りというものが成り立っている実状からすれば、どちらが尊いということは無いのだろうが・・・。これには性別も影響しているかも知れない。先日、西丹沢で邂逅したヨネちゃんは、言うまでもなく前者である。が、女性は賛同する者に徹するひとが多いように思う。女性という社会通念の中におさまっていて、なにか自然のことのようだが、どう思うだろうか。
 これは、少し論点がずれてしまうが、「自分よりも下手な人とは一緒に行かない。」という者があり、驚いたことがある。そのひとは、常に自分より上手な人と歩いていることになり、他人には自分の信条とは反対のことを強いていることになる。なかなかのリアリストであると思う。

 いずれにしても、自ら計画する立場をとらない者は、ひとりで歩くことはない。そういう点で私は、計画する者である。他の人の計画に賛同して同行したいと思うことは多くあるが、なかなか実現しない。人より早く計画を出してしまうこともあるかも知れない。そういうことから考えると、多分私はひとより我儘なのだと思う。
 最後にもう少しだけ、ひとりで歩くことになる理由を付け加えておこう。それは、リハビリ中であることと年齢の影響が加わって、まともに沢を歩く体力を持っていないということである。体力を使う標準ルートは歩けないが、短い沢なら歩ける。ひとりで歩けば、自由に歩く速さも調整できる。これらがその理由である。更にもう一つ付け加えれば、私が沢へ出かけたくなるのは、天候のはっきりする前日か前々日である。そんなに急な我儘に付き合ってくれる友人がいる訳がない。それが理由である。
 様々な理由が重なって、今しばらくは、ひとりで歩くことになりそうである。




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