2013.10.20 沢登りというもの


 奥利根の楢俣川支流、洗ノ沢を遡行して笠ヶ岳2057mの頂上に立った。手強いアスナロの密ヤブを抜け、頂上前は、文字通り最後の力を振り絞って登った。頂上は爽快だった。複雑な形を見せる楢俣湖の湖面の水際が白く輝いて見えた。南面には片藤沼が静かなたたずまいを見せ、二つのきらめく水盤を並べていた。北には、至仏の玉座がその頂を見せるはずだったが、薄くガスが懸かり、いつまでもベールが解かれることはなかった。手前には、小笠の頂上が端正な円錐の頂を見せ、その東側には、スリバナ沢の源頭が、原始のたたずまいを見せていた。
 高峰の頂とは、確かに素晴らしいものだと実感する。遮るものがなければ、遠望できるもの全て、その姿を「捉える」ことができる。これが登山の醍醐味なのだろう。波打つ山稜とその頂き、それらの高みから山裾に伸びる支尾根の輪郭、そしてその間を伸びる窪の動脈、沢と沢。だが、高峰の頂から対象を「捉える」ということは、対象の配置と高さを知ることに過ぎない。それは、五感を働かせて対象を捉えた時の実感を伴わない。いわば、対象の概要を捉えているに過ぎないのである。少し難しい言い方をすれば、このような登山を演繹的な登山、頭脳の登山と言えるだろう。
 一方、登山の一形態である沢登りは、概観を捉えてその細部をイメージしようとする方法ではなく、細部に直接当り、山々の実相を体感的に捉えようとする登山である。水の流れる山間の窪である沢に入れば、視界は閉ざされて、遠望できるものはない。沢そのものと、両岸の景色以外は、頭上の天空しか眼に入らないのである。そこは、対象と直に向き合う以外に喜びを見つけることのできない世界である。水の冷たさとその流れる音、淵や釜を俊敏に動く魚影、岸の木々の葉の擦れる波音、小鳥のさえずり、大滝の轟音と水飛沫、小滝のささやきとナメの反す光のきらめき、流れを渡るときの圧倒的な水の力、焚き火の煙のどこか懐かしい匂い。これら対象と関わるとき、どれも、五感の全てが動員されている。ここでは、対象に身体が直接に関わって得られたものが、「捉える」ことを意味するのである。これを、頭脳の登山に対して身体の登山と言っても良いと思う。細部をひたすら「感じる」ことによって、そこから山々の実相に迫る帰納的な登山と言えるだろう。
 すこし、小難しい迷路のようなものに入りそうなので、この辺で正気に戻ることにしよう。考えてみたかったのは、頂上に立つことを目標にして、できれば眺望できる山々を捉えようとする「登山」と、暗い函の中でその壁や流れる水と格闘しながら、山々を捉えようとする「沢登り」の違いを考えてみたかっただけである。これは、沢登りというものに尋常でない嗜好を見せる私の務めであると思うし、自身のアイデンティティーを求める旅でもあるのだ。もとより、これらは、どちらがより優れているとか、より楽しいかという価値判断とは無縁なものとしたい。

本文は、元々2010年8月に遡行した洗ノ沢(奥利根楢俣川)の記録としてこのサイトに掲載したものである。後に2011年に発行した「さわね」機関誌の巻頭言も飾った。先日、友人のNさんからアドバイスが有り、ここに再録することにした。文章というのはその時々の勢いで書くものだから、またいつでも書けるというものでもない。沢歩きというものが何なのか、ということを考える一助になれば幸いである。(2013.10.20)



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