2013.04.09 彫刻の森美術館 箱根 


ひと目で、岡本太郎と分かる作品だが、居並ぶ世界の強豪と並べてみると、少し迫力が足りない。小さいせいかな。だが、岡本太郎の繊細さを感じ取ることができる。
「樹の人」


 誤解を恐れずに言えば、芸術作品というのは異物として映る。私の住む街にも、時折ストリートギャラリーなるものが催される。洋品店のショーウィンドウや文具店の店頭に、現代作家の作品が飾られたりする。小さな街の店先に飾られるのだから、無名の作家なのだろう。絵画など平面の作品が多いが、それでもその美術作品とその周辺は、何か日常的でない特別な空気が流れているのが感じられる。なぜなのだろうか。芸術作品というものは、もともとそういうものだからである。日常的ではない、自然には存在しない何物かが、人間の手にかかって産まれてくる。芸術作品というのは、工業製品と同じように、自然のものに、自然のものを使って、人間が加工を加えて産み出されてくるものだ。だが、芸術作品というのは、工業製品とは決定的に違う。それは、人間の日常の役に立たないからである。非日常というのが、芸術作品の貌(かお)である。脈絡もなく、まだ無名だったゴッホの油絵が、鳥小屋の扉に使われていたという逸話を思い出す。芸術作品が、日常の手段として使われるというのは、こういう間違いが起こった時だけである。普通、ゴッホの絵画は、鳥小屋の材料に使われたりしない。日常の役には立たないものだ。

 箱根の「彫刻の森美術館」へ出掛けた。あまりに天気が良かったので、家にゴロゴロしているのがもったいなかったのだ。単純な動機だ。だが、風が強くて少々まいった。前にもどこかで書いたが、我が家は、箱根の西の山麓にある。平日でもあったので道路は空いていた。45分で彫刻の森に着いた。近い。箱根登山鉄道に彫刻の森駅がある。終点、強羅駅のひとつ前だ。
 箱根は、今や国内の国際観光地のトップにも数えられるだろう。日本人よりも、海外からの人が多い。最近の箱根は、そういうところだ。昔は、国内の若い人がけっこう集まった観光地だったが、今では様変わりしている。と、したり顔で語るが、今度行った「彫刻の森美術館」が、たまたまそうであっただけかも知れない。日本人が1、外国人が2ぐらいだった。アメリカ、西欧、アジア、中国、ロシア、そんなところかな。まあ、話した訳ではないので確信は持てないが。立派な国際観光地だ。中国語を話す人が多い。

これぞ彫刻と思わせる安藤泉の作品。「勢塊 powerful mass」
主題はさておき、その量感だけが前面に押し出されてくる。これでもかという圧倒的な存在感。


 彫刻という芸術は、平面の絵画と違って、そこにあるだけで圧倒的な存在感がある。質量感いっぱいと言ってもいい。しかも、その彫刻の塊が日常の何の役にも立たないので、その量感だけが前面に押し出されてくる。役に立たない存在感と言っても良いだろう。この美術館のキュレーターも当然ながら、彫刻の何たるか、「つまりは日常に何の役も立たない塊」であることを知っている。エスカレーターで降りた入口近くにドカンと据えられたのは、「勢塊 powerful mass」という作品だ。私の芸術観そのものを表すような作品だった。安藤泉とあるが、もちろん私は知らない。多摩美大客員教授というから、よく知られた人なのだろう。この「勢塊 powerful mass」は、馬鹿でかい牛だ。もちろん本物の牛ではないので、煮ても焼いても食えない青銅の大きな塊である。ただそれだけ。

カール・ミレスの「人とペガサス」
空をとぶ人と馬、どの角度から見てもその動きが面白い。
意外と古い作品だ1949 自分の生まれた年とあまり違わない
。それがどうしたという訳でも無いが。












フラッシュモブという「遊び」があるらしい。flash(発火) mob( 群衆)さっき、NHKのクローズアップ現代でやっていた。街頭で、人の集まりそうな所で、突然意味のない行為をして遊ぶ。「遊ぶ」というのは生きていくには何の役にも立たないような行為をすることなので、フラッシュモブを「遊び」と定義しても良いだろう。テレビでやっていたのは、雑踏の中で、バナナを携帯電話に見立てて通話する行為を大勢の人でやったり、突然街頭で、ひとりが楽器を演奏し始めると、次々に楽器を持った人々が集まり、オーケストラになって音楽を奏でる、というようなものである。どの行為も終わったら即座に散会する。つまり、衆目の前で意味のない行為をして自ら楽しみ、それを見ている人々の反応を楽しむ、あるいは見ていた者がその意味のない行為に加わって楽しむ。そんな行為のようだ。ただそれだけだ。もちろん、フラッシュモブを企てる人々は、ネットなどで連絡をとりあっている。作為的な行為だ。私は、このフラッシュモブを彫刻の森美術館の彫刻と同じものだと瞬時に思った。ただ違うのは、フラッシュモブは、その時だけで消えて無くなってしまうので、超芸術、超彫刻といっても良いだろうと思う。彫刻以上の芸術だ。


「交錯する空間構造」後藤良二
男女のフィギアが手足をつなぐ無限連鎖の空間 リズムが有って記憶に残る 30年前にもこの作品を見ていたが記憶力の悪い自分でもはっきりと覚えていた。
1980年代にこのシリーズをいくつも見ているが、作者は元気なのだろうか。造形的には閉じられていくように見える。完結といっていも良い。作者は、苦しくないか。


 そういえば、「芸術は爆発だ」と語った岡本太郎氏の作品も入り口を入ったところにあったが、これはややマッシブ感に欠けた。岡本太郎の作品も見事に無意味感と質量感を見せてはいるのだが、「勢塊 powerful mass」や居並ぶ他の彫刻と見比べると、やや見劣りがする。少し小さいせいかも知れない。もっとも、大きければ良いというものでもない。メダルド・ロッソの痛くなるような作品は、小さくてもガッチリと我々の胸を掴んで離さない。「ユダヤの少年」は、怪我をしたようでもある顔の一部が欠けた痛々しい印象を与えた。だが、ロッソのコレクションは、撮影が禁止されていたのでカメラで捉えることは出来なかった。オーギュスト・ロダン(1840~1917)を知らない人は無いだろうが、ほぼ同時代を生きたロッソ(1858~1928)の名を知らない人は多いだろう。私も知らなかった。ロッソの作品は撮影禁止だったので、写真はない。



左上から「横たわる像」、「原子の形(核エネルギーのための原型)」、「二つに分けられた横たわる像」「ファミリー・グループ」、「大きな糸紡ぎの形」ヘンリー・ムーア

結局、シャッターを一番たくさん押してしまったのがヘンリー・ムーアの作品だった。というか、ムーアの彫刻が多く、しかも圧倒的な存在感のために、そうなったのだろう。ムーアの彫刻は抽象化されているが、メッセージ性の高い作品が多い。私は、ムーアの作品をあまり好まないが、もしかしたら、ムーアの作品を多く知ってしまったせいかもしれない。もし、仮にこれらの作品を初めて眼にした時には、恐らくは驚きの声をあげるだろう。ムーアの彫刻は、我々の想像力を掻き立てるのも特徴である。「大きな糸紡ぎの形」など、男女の抱擁に見えてしまうのだが、これは私の性格が影響しているのかも知れない。


 彫刻の森美術館をゆっくり、隅々まで見て回るには、数時間はかかる。美術の教科書に載る有名どころの作品が多い。作品の多くは広い庭園の中に置かれているので、作品とその庭園の創り出す雰囲気が素晴らしい。手入れされた庭園の樹木は、それだけでどの作品にも劣らない芸術作品に見えるから不思議だ。無用の長物としての非日常の彫刻と日常の自然とのコントラストが、両者を際立たせるのだろう。


美術館入口付近 季節のせいかのどかだ
神の手による彫刻、樹木も世界の彫刻と比べて見劣りしない。というより、はるかに優っている。
レストハウスから外を望む 平日のため、人は少ない美術館は成り立つのだろうか。

 美術に興味を持った時期があった。まだ若いとき、尺八奏者だったSさんから、『美術手帖』を勧められた。50歳前後で購読をやめるまで30年は、この美術手帖にお世話になった。美術手帖は、国内外の現代美術や前衛的な美術を紹介する唯一の国内誌だった。私は、美術品の現物を見て歩くことのない書斎鑑賞家だったので、本当に美術を鑑賞したとは言えない。だが、現代の作家がどのような作品を創作しているのかを知るには十分だった。どの作品も、何の役にも立たない、ということも知った。
 だが、芸術作品を「無用の長物」と定義したとしても、では、なぜ人はその「無用の長物」を創りあげてしまうのだろうかという疑問が産まれてくる。それが、人が人である由縁だからだ、ととりあえず答えておこう。これに回答を与えるには、自分の頭脳をフル回転させなければならないので、今日はこの辺りまでにしておこう。疲れた。ところで、この今書いている文章も、まさに日常の「何の役にも立たない」のだから、私の定義で言えば「芸術作品」となってしまうが、それでよいのだろうか。「文学作品」、なかなか良い響きだが。

「断絶」1969 伊藤淳
健康な者、やせ衰えた者の肉体が、あたかも屍骸のように積み重ねられている。間に骸骨がいくつも見える。人間世界の消滅、世紀末を思わせる彫刻だ。1960年代の世界への先鋭なメッセージが込められている。

「眠れる頭像」(手前)イゴール・ミトライ
包帯に巻かれたヴィーナスが無造作に横たえられている。包帯もヴィーナスも真白な大理石だ。硬い石で、柔らかい包帯が彫られているのに違和と感動を覚えながら、惹きつけられる。彫刻はかなり大きく1トンぐらいはあるかも知れない。

前方に見えるのが、「幸せを呼ぶ<シンフォニー彫刻>」

幸せを呼ぶ<シンフォニー彫刻>」の内部 合作 ガラス工芸 ガブリエル・ロアール
光を通した鮮やかな色が眼に飛び込んでくる。色彩は力強い。単色の彫刻に比べると、また別種の感覚が呼び起こされる。色彩はそれだけで我々の心を捉えて、賑やかな音楽を奏でる。

ピカソ館
PICASSO」という文字が最も芸術的だと思う。居並ぶ彫刻も、この文字には圧倒される。我々にはPICASSOが刷り込まれている。少しの絵画と陶器、版画が収められているが規模は小さい。写真撮影禁止。


「球体を持った球体」アルナルド・ポモドーロ
中庭に置かれた彫刻では、最も目立つ。磨かれた表面が金色に輝いているためだろう。ムーアの作品が自然の中に調和するのに対し、この作品はあくまでも異和を主張する。正面から見ればこの中にもうひとつの球体を孕んでいる複雑きわまりないオブジェだ。


「ミス・ブラック・パワー」ニキ・ド・サン・ファール
バックの杉の木?に比べても劣らぬ強い存在感がある。広い肩、大きな胸、太い腿、ポップな色調の大胆な衣服。人の存在の大きさがそのままに、明るく表現されている。ここには、彩色された彫刻は少ないので異色だ。

「西行」松村外次郎
日本風の庭園の隅に、自らの存在を消すように立つ西行の像。「ミス・ブラック・パワー」とは対照的だ。どちらが人の本当の姿なのだろうか。なんて、なにか「哲学的」なことを考えてしまう。
日本風の庭園で
「浮ぶ彫刻」マルタ・パン
この彫刻の森では、水と和した唯一の作品

手前の作品は、水面をゆっくり回転する。

「雨の山」イサム・ノグチ
何故だか分からないが、「西行」と同じ感慨を起こさせる作品だった。単に縦に長いからかな?4枚の鉄板を縦に並べただけの単純な構造。角度によって見え方が変わる。桜の下がよく似合う。


エミール‐アントワーヌ・ブールデル
4部作
4体の大きな具象彫刻。力作だが、ギリシャの匂いが濃く私の好みには合わない。というか、良さを見る眼がない。

左手に見えるのは、「雨の山」

「衣を脱ぐ」ジャコモ・マンズー
解説不要。キュート

ヘンリー・ムーアの広場
明神ヶ岳(右遠方)が見える。



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