2012.11.27 沢の記録と遡行図


 沢の記録や紀行をどう書くかということは、沢の記録をどう読んでいるか、ということと関係しているのだろうと思う。ここでいう記録や紀行というのは、ウェブサイトに掲載された膨大な遡行の軌跡を指している。
 沢の記録の読み方は、人それぞれによって異なるだろうと想像はできる。だが、他の人がどのようにそれを読んでいるのかは、聞いてみたことがないので分からない。ただ、自分にとって好ましく思う記録とそうでない記録があるのは確かである。参考になる記録と参考にならない記録といってもいい。

 私がひとの遡行記録を読むのは、ほとんどの場合、遡行すべき沢の候補を選定するときやその沢を遡行するための情報を集める時である。したがって、記録や紀行に求めるのは、ある意味正確性であって、それ以上のものを例えば著者の人となりを知るとか、その文学性を味わうといったことを求めることはまずない。というか、記録と文学というようなテーマを意識して書かれている文章には、そう簡単にはお目にかかれないというのが実情である。
 記録を読むとき、私が欲しいのは、難しい滝やゴルジュの登攀や通過、高巻きの様子、そして詰めの進路である。入渓地点が間違いやすい場合には、その様子も知りたい。これは、私が沢の初級者だからだろうと思う。その沢が自分にでも遡行できそうなのか、通過の難しい箇所はどこなのか、そこをどのようにクリアすべきなのか、を知るために記録を読むということだ。
 たいがいの場合、すぐれた記録を残すのは優れた遡行者である。文章の優劣を言っているのではない。優れた遡行者は、遡行のうちの何を記録すべきか、そして何を語る必要がないかを知っている。ときどき、初心者に押しつけて記録を書かせたような文章に出合うことがある。こういう文章は参考にならないことが多い。なぜなら、書いている本人がどこを歩いているかを知らずに、あるいは間違えて「記録」しているからだ。文章の鍛錬という障害は確かにあるのだろうが、記録を残す力は、沢を知ろうとする情熱に比例しているように思うのだが、どうだろうか。
 ときに、素晴らしい記録に出会うことがある。過不足無く通過困難な対象が描かれ、沢の楽しさが描かれている。そういう文章は、対象をそして自身の力量を過大評価も過小評価もしない姿勢に貫かれているものだ。そこに信頼が生まれる。記録を読み参考にするということは、現物を見ずに、その沢を評価し自分の力量との差を見極めること、ある意味、真剣勝負だ。信頼出来る記録を残すのは、そこに意味がある。現地で初めて沢に向き合うのではない。情報を集めるときにすでに遡行が始まっている。そう思って良いのではないか。そういう観点から考えた時には、記録というのは、私的なおしゃべりであって良いはずはない。

 遡行図を残す者は極めて少ない。記録を図形化するのに時間がかかる。遡行図を描くほどに沢の情報を集めていない。あるいは、記録に囚われることによって、遡行が楽しめなくなる、など幾つもの理由があるものと思う。それはそれで良い。だが、遡行図は、やはり沢の記録を残すのに最もふさわしい。文章だけで沢を表現するのはなかなか難しい。例えば、沢のガイドブックは遡行図があるからこそ価値があるのであり、遡行図の無いガイドブックなどは考えられない。山岳会や同好会の会報、会誌しかり。遡行図があるからこそ、沢の記録として完結したものになる。そう考えている。
 前にも、他のところで書いたが、小泉共司氏の『奥利根の山と谷』に掲載された遡行図は、遡行図という機能以上のものが溢れているようにみえる。その小泉氏の手になる遡行図には、氏の沢へ向けた思想の全体とでも言えるものを感じてしまう。さらに言えば、芸術性のような、ある美しさを感じてしまう。
 文章による沢の記録が、このような美しさを放つことになれば素晴らしいと思う。そういう文章を、できたら書いてみたいものだ。

 記録を遡行の参考にするという立場からいろいろ書いた。もとより遡行後に認める文は、必ずしも記録を取るばかりとは限らない。楽しい思い出を残しておきたい。出掛けた時の様子を忘れないようにメモしておきたいなどなど、様々なものがある。それらは、それぞれに貴重なものだと思う。文章というのは、どんな場合でも、遡行の様子や書く者の心の有り様を、良く表してくれるものだ。そういう、てらいのない文章も私は好きだ。



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