2011.11.26 詩誌『差差』













 北沢秋恵さんは、若い時の同人だが、いまでも詩を書いている。私は、途中であっさり捨ててしまった。とはいえ、30年近く、作品と「格闘」していたのだから、あっさりというのは正しくないかも知れない。たぶん、自分の限界に気づいたからだと思う。だが、それ以上に自分の詩に信頼を置けなかったのだろう。
 最近の北沢さんの作品を読んでいると、「詩も捨てたもんじゃないな」と思う。詩誌「差差」も14号のようだから、7年続いたことになるのだろうか。今度の作品は、ことばに関わるものが三つだ。どの作品も、ことばに関わり、ことばが問いのままに反響して止まない、そんな作品だ。
 「損なわれた言葉」は、砕かれたコンクリートのかたまりを違和を持って眺める自分がいる。どうやら美術館の展示のようだが、生活空間での出来事のようでもある。男がその砕けたコンクリートに、ラベルを貼ろうとしている。ラベルを貼るというのは、その砕けたコンクリートに意味を与えることである。「私」はそのラベルの言葉を読もうと思って、男が貼り終わるのを待っている。そんな作品だ、自分でこの作品を読んで、注釈しようとしても、この作品のほとんどがこぼれ落ちてしまう。詩として何ものかを語っている作品というものは、こういうものだと思う。それを哲学的だと表現しても、禅的だと感じても良いだろう。この詩の空間自体が奇異である。われわれの空間のステレオタイプでは捉えられない歪を抱えた空間なのである。この作品を、身近な自分の経験に惹きつけて強引に読み込むことはできるだろう。だが、この詩空間はそれを容易に許さない。謎なのである。コンクリート片という謎に、空間のねじれという謎を抱えている。問いのことばを発して、問いのまま終わる。どこにも救いがないのがいい。生きて在ることとは、そういうことだ。そう納得できる。問いが反響してやまない作品である。
 「聞くT なげき」、「聞くU 沈黙の言葉」も優れた作品だと思う。「朝顔が紅色の花を二つ咲かせた」、で始まる「聞くT なげきは、失ったことが、無くしたことが、なぜそんなに重いのかという作品である。まあ、散文で書いてしまうと全く味気ない。無くすことの重さ、というのは身近な経験の中にもありそうなことだ。この作品を、今年の震災の「なげき」として読むことも可能だ。だが、作品は、その特殊な事例の語りべになることを拒んでいる。我々の経験が、我々のことばで語れないとき、往々にしてことばは、経験を矮小化しようとする。だが、作品はこの思考を許さない。特殊な事例や経験に閉じようとすることばを、あくまで解き放ち一般化しようとする力が働いているからである。経験に感覚に収斂されないことば。どこまでも問いのまま、反響して止まないことば。詩としてのことばがここにある。


損なわれた言葉
北沢秋恵

広場に点在する大小のかたまりを
避けるように私は歩いた
一人の男が砕けたコンクリートのかたまりに
ラベルを貼ろうとしていた
悲鳴を上げる裂け目を塞ぐようにも
見えたが

 笑いすぎて
 内側から裂けてしまったんだ
 そのカタチを見せようと
 汗をかいた人間の手が見えるようじゃない
 おかしなカタチに愛をこめて
 言いながら私も笑っていた
 美術館の中庭に展示されていた
 やわらかい光の中の
 それを見たときのこと

焼き付けるような日差しと辛い潮風に
さらされた
傷ついたかたまりを見ていると
「巨大な神のハンマーで砕かれたのだ」
と私の口が言うのだった
まるで誰かの代理人のように
そうして
男が貼り付けたラベルの文字を読もうとして
私は男の立ち去るのを黙って待っている

(原文は縦書き)



聞く T なげき
北沢秋恵

朝顔が紅色の花を二つ咲かせた

何もない夏の始まりだったらよかった
何もかも失った時
空っぽって感じることができたら楽なのに
風に吹かれて
ふわふわ漂うほど
身軽になっていたら
どんなに楽だろう


なんてないらしい
無くなった物の重みって
どうしてこんなに増すのだろう
水を吸い込んだ砂のように
ずっしりと私にかかる
私を地底に引きずるようだ

何もかも奪ったくせに
どうしてきれいさっぱりにしてくれない

(原文は縦書き)



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