11.07.23『現代哲学への挑戦』 
 
関心をいだいた哲学者または非哲学者について語れ(明日の期末試験の問題を想定して・・・)


 私が
20〜30代のころ、主体的に生きることが、現代の人間に求められる理想的な生のモデルとして疑わずにいました。だが、そのことが従属であることを明かしてくれたフーコーの思考の衝撃を未だに忘れることができません。それは40歳の頃でした。その気づきの少し前に、西欧の知と権力の結びつきを、私に気付かせてくれたのはニーチェでした。フーコーの思考にニーチェの影響を読み取るのは、難しくありません。だが、私がなぜニーチェやフーコーの思考にひかれるのか、明解に語ることはできません。ですが、二人に共通するのは、われわれが現在生きているそのことの意味や「正体」を、今までとは別様に見させてくれる思考であるからだと思えます。私は、哲学するテーマを持っておりません。それでも、哲学に興味をひかれるのは、「自分のことを知りたい」という欲求ではないかと思っています。だが何故そうなのかを正確に語ることはできません。やはり40歳のはじめに丸山圭三郎氏を通して知ったソシュールの思想にも大きな衝撃を受けました。ソシュールの思想が、フーコーの哲学の方法に大きな影響を与えたことは、そのあとで知りました。我々の日常を支配する言葉が、われわれ人間の及ばない構造というもので支えられていることを知りました。差異の体系によって成り立っているその構造は、コトバとコトバの間やその体系の外に、おびただしい空虚を抱えている、ということも想像できました。われわれは、捉えていることのほうが圧倒的に少なく、空虚・不在がわれわれを取り囲んでいるのだという。
 フーコーの哲学によって、「人間の終焉」が明らかにされました。人間の身体においても精神においても科学という知の権力への意志によって、矮小化された「人間」が発明されたのです。科学という知が権力への意志によって、身体の健康が人生の目的とされ、狂気という「精神の病」が創造されたことによって、人間の身体や精神の多様性が奪われました。狂気は、理性的な言語の外にある、いわば不在にたとえることができたのですが。これら「人間の終焉」は、哲学の明らかな衰弱によるものです。このようなポストモダン状況において、現代哲学がどのような挑戦をするのか、哲学に教科書や解説書によって近づく以外にない私にとって、いまだぼんやりとも展望が開けません。



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