2011.04.13 東野さんの詩集の意匠または衣装について


 東野正(ひがしのただし)さんという詩人はどんな人なのだろうか。どうして東野さんを知ったのか、今では良く思い出せない。いずれ、私が沼津に住んでいた30代のころ、まだ「文学者」になるか「技術者」になるかを真剣に考えていた頃に、付き合いが始まったのだろう。たぶん、私が盛岡へ帰省しているときに、盛岡の書店「さわや」か「第一書店」で詩誌「百鬼」を購入したのがきっかけだと思う。鬼気迫る東野さんの作品の感想を送ったのが、最初ではないかと思う。盛岡の大きな書店は、地元の文学者を大切にする風土がある。郷土に関わる作者や作品が置かれたコーナーがあったものだ。最近はジュンク堂、盛岡進出などのニュースもあったようだが・・・。岩手の文学者といえば、石川啄木と宮沢賢治がすぐに頭に浮かぶが、実際この二人に関係する書物が多く置いてあるのが書店の風景だった。まったく、いつまで石川啄木と宮沢賢治なのだろうと思ったことはあるが、郷土での二人への愛着は大きい。

 その後、「百鬼」を送ってもらったり、東野さんの奥さんの詩集を頂戴したり、その感想を書かせてもらったりで音信があった。自分の友人の詩集の装幀を、東野さんを介して、ずうずうしくも高橋昭八郎さんへお願いしたこともあった。そのうち、勢いのあった「百鬼」も衰退?し、詩誌を頂かなくなって久しい。「百鬼」には、とんがった詩人がけっこう居たが、今はどうしているのだろうか。詩が生き難い時代にあって、私と同じ末路を辿っているのだろうか。東野さんとは、今では年賀状を交換するだけの間柄になっている。
 東野さんは、私が落伍してからも、こつこつと詩らしきものを書き続けていたのだろう。きょう突然、積み木のような詩集が届いた。川崎英穂さんの住まいはここですか、と宅配便の人が玄関のドアを開けた。この名前で郵便物が届くのも年に数えるほどになった。積み木の詩集である。なぜなら、五冊の詩集がひとつの箱に入っている。この五冊がさらに、背表紙を揃えると、頭をやや傾げた男のシルエットが浮かぶような仕掛けになっている。五冊の詩集は互いにタイトルとブックデザインによって関係付けられている。奥付には、それぞれ第6詩集〜第10詩集と銘打たれている。そうか、まだ5詩集しか出していなかったので、一気に有名詩人の仲間入りをしようと考えたのだろう。それにしても、ずいぶん乱暴な。いっぺんに五冊なんて。














 それにしても、この遊びのいっぱい詰まった詩集には度肝を抜かれた。感心した。だれも、詩集をいっぺんに刊行しようとは考えないだろう。ましてや、五冊も。普通であれば、一冊出すのにも、作品を選別して秀作を選びぬいて、そして自分の貯金と相談してから、こっそり出すというのが、普通の詩人の道では無いか。この、突然なんの前触れもなく、五冊を堂々と世に出してしまうというのには、やはり驚きだ。もう作品なんてどうでもいい。この積木のような詩集を、縦にしたり、横にしたり、裏返したり、積み重ねたりして愉しめばいいんだ。

 発行のタイミングもベストだろう。このところ毎日、何万回と地デジを飛び交う「日本は素晴らしい国。ひとりじゃない。頑張れ。応援している。」という紋切り型のフレーズをこの詩集は一蹴するだろう。意気消沈している場合ではない。しょせん、人間なんてどんなになろうと生きて行くのさ。遊びを取り戻せ。しかめつらしい顔をしていても、始まらない。パチンコの照明がどうだ、自動販売機の消費電力がどうだなんて言っている奴らには、この遊びの詩集をお見舞いだ。悔しかったら、かかって来い。

 言誤調、難破調、書損調、戯私調、否熟調という、誤植まがいの詩集のタイトルはどうだ。生活を歌った啄木でもなく、宇宙を歌った賢治でもない。生きるに関係しない値しない、言葉の遊び。そうだ、この詩集は、作品も、装幀も、タイトルも全て根っからの遊びなんだ。「遊びをせんと生まれけん」というのが、どっかにあったな。それなんだ。作品をまだ読んでいなけど、詩集の中身も遊び尽くしているのに違いない。表紙のデザインも洗練されている。おしゃれだ。よく見れば、裏表紙のデザインも表紙の形と同形だ。だが、それは縦縞模様に変わり、なにやら三次元のオブジェ風に変わっている。すこし不気味だ。その不気味さがいい。装幀の田村晴樹さんって誰だろう。
 ここまで書いてきて少し疲れた。まあ本当に、詩集の作品ではなく、その意匠について、これだけ語れるのはめずらしい。文学不毛の地?、静岡の詩人にもこの分厚い遊びの詩集を見せて、度肝を抜きたいなー。また書けたら、続きを書くことにしよう。今日はこれでおしまい。そうだ、発行所のセスナ舎というのもいいな。発行人は佐藤康二さんになっているが、ネットでみると詩人・佐藤康二という情報もあるので、きっと時々詩を書いている人なのだろう。難しいけど、東野正さんの作品に挑むのもいいな。ほんとに、今日は、これでおしまい。

 東野さんの作品のわくわくするような、このはじまり。東野さんの作品は、どこからでも始められる。それが、遊びの所以なんだ。そう言えば、こういう芸術のにおいのする硬派な作品を最近見なくなったなー。


否氏の非私
         東野正

  響かず
  残らず
  伝わらないもの
  老成も成熟もなく
  衰弱するだけ
  消滅のための生成

  何事か付け加えられ
  あるいは抹殺され
  原形を持ちこたえることなく
  自らを放棄し
  変成して
  転位してゆくもの

   (以下略、本文は縦書き 「第6詩集・言誤調」から)


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