自己模倣の悪い例


11.02.20
 編集について





 この一ヶ月は、楽しみでやっている授業の期末試験があったり、同好会の会報を編集したりで忙しかった。小さな同好会の会報と言っても、100ページを越える分量なので、そこそこ真面目に編集すれば結構面白い。が、その分時間も取られる。いつも思うことがだ、編集というのは「思想」であると思う。「思想」というのは、人間に貼り付いているものだが、それだけを剥がして見ることはできない。だが、それは、人の行為の隙間から滲み出してきて、知らぬ間にその人の裸の姿を現してしまうので恐ろしい。「思想」というのはそういうものである。そういう意味で、編集とは怖いものである。
 編集とは、冊子に取り上げる原稿の選別、あるいは著者や作品の選別というところから関わるのだろうが、同好会の会報の場合は、この選別という手法は封じられている。自分たちは、登山の楽しい思い出を残しておこうとしているだけであり、その楽しさを選別できる訳がないからである。では、何が編集の仕事となるのだろうか。
 それは、1)表紙のデザインであり、2)本文のレイアウトであり、3)誤りなく原稿を表現する。ということになるのだろう。1)の表紙のデザインの重要性を疑う人はいないだろう。表紙は、冊子の顔であり、その冊子の思想を表現する最も重要なファクターである。表紙に関しては、編集者の意思が自由に働く場所ではあるが、冊子の内容を汲むものでなくてはならない。冊子の内容にふさわしい顔が、意外性と明るさを持って表現されていなければならない。編者にとっては、この顔の創造はなかなか楽しいものだ。だが、その自由度が大きい割には、在来から採られているデザインの流れに呑まれることが多い。これは、「眼に見えない制約」に絡め取られる結果だろう。例えば、他の山岳会の会報の表紙を見ると、それは歴然としている。この表紙の創造に当たっては、他の山岳会の会報を「参考にしない」ということが重要になってくるだろう。もうひとつ、自己模倣にも注意を払わなければならない。自己模倣は、必ずその表紙の存在感と緊張感を失わせる。
 2)の本文のレイアウトに、編者はどのような思想を表現できるのだろうか。編集という仕事が、単に筆者の原稿を順番に並べるだけであれば、難しいところはない。本文のレイアウトは、読む者に表紙ほどに影響を与えないと考える人がいるかも知れない。だが、それは思った以上に冊子の姿を現すものである。このレイアウトを決める要素は、冊子の版の大きさを別にすれば、a)ページの周囲の空白サイズ、b)タイトルの字体と文字サイズ、c)本文の字体と文字サイズ、d)本文の行間隔、などだろう。写真を挿入する場合は、e)写真の大きさ、キャプションの字体、文字サイズ、がそれに加わるだろう。これらの、要素の組み合わせの可能性は無限に近いので、これらを検討し出すとキリがない。泥沼に入り込む前に、どこかで妥協しなければならない種類のものだとは思う。
 本文のレイアウトは、表紙と同じように編者の意思が自由に働くところであるが、ここにも見えない制約が働くのが普通である。それは、過去のその冊子のスタイルであり、他の冊子のそれである。初めて作る冊子でなければ、いままでの本文のレイアウトを受け継ぐのが無難だろう。統一の美ということもある。だが、その制約のないところからまずは考えてみたい。
 本文は「明朝」というのが相場だろう。文字が自身を主張せず、最も美しく見えると思う。多くの人もたぶん同じように感じると思う。マイクロソフトのワードでは、MS明朝とMSP明朝を選択できるが、見た目の美しさからMSP明朝に分があると思う。MS明朝は、日本語の一桝一字の機械的な均等の美を見せるが、文字種によって文字の横幅が調整されるMSP明朝の方が間延びしない美しさが保たれている。一行の字数もこちらのほうが多いので、ページ数を抑えるのにも効果がある。
 文字のサイズは重要である。文字は大きすぎても小さすぎてもバランスが取れない。読み易さからすれば、文字が大きいほうが良いのかも知れない。だが、かつてワープロの標準的な文字サイズであった10.5ポイントの文字は、印刷物の中ではかなり大きい。今度の同好会の会報では、本文の文字サイズを10ポイントにしたが、大概の書物の文字サイズは、10ポイントよりは小さい。文字の大きさに関する好悪の感覚は、人によって異なると思うが、世に出ている書物の文字サイズは意外に小さい。注意しなければならないのは、文字は小さくても行間はある程度以上大きくないといけない。行を追っての文字が読みにくくなるからである。例えば、MSP明朝、文字サイズ10ポイントの場合、標準の行間隔(一行)では読みにくいと感じるだろう。行間隔が狭く、行の流れがボヤケるからである。行間隔の空白と文字の並びが白と黒の帯に明確に視覚化されないために、文章全体から行を捉えにくいのである。これも、多くの書物を見ると分かる。前述したように大概の書物の文字は小さいが、行間隔はかなり大きくとっているのが普通であり、これはこれらのことを考慮してなされたものと思う。意識していないかも知れないが、我々がパソコンで作る文書は、文字が大きく行間は小さいのが普通である。これはワードなどの標準設定がそうなっているためだが、それが冊子や書物として使う場合には、必ずしも適当ではないということである。
 特別に事情がある場合を除いて、字体、文字サイズ、行間隔は冊子全体に渡って統一すべきだろう。そこに統一の美が働くからである。難しいのは、太字や筆者が特別に使用する記号をどう扱うかである。最近は簡単に太字に変換できるので、太字で文字や文章を強調する人も多い。これは、太字を使うことによって、統一の美が乱されなければ尊重すべきことと思うが、個人的にはあまり多用すべきではないと思っている。絵文字などを含めて、強調記号をどうするかは、編者によって異なるのだと思うが、原則としては著者を尊重するのが良いと思う。だが、全体のレイアウトや統一性を考えたときに、記号が必要以上に目立ってしまうことがある。そういう場合には、使用の制限をするのも必要だと思う。
 最後になったが、編集のもっとも重要な仕事は、著者の文章をその本意のまま、読みやすい形で冊子上に表すことである。これは言うまでもないことだろう。そういう意味で、今まで述べた編集者の意図が冊子の表に出ることは避けなければならない。あくまでも、編集者は黒子なのである。編集者の意図が表に出ないように、著者の文章を大切に扱う。これが原則であると思う。いたずらに文字を大きくしたり強調したりするのは、編者のすることではない。それによって冊子の品格が高められることは無いだろう。それよりも、編集後の校正を繰り返し、著者の文章に欠けや間違いがないことに気を配るべきである。この校正が編集の仕事としては最も大変で重要な仕事の一つであると思う。だが、時間をかければ欠けや間違いは修正されるが、プロでもない限りは完全に誤りを無くすのは難しい。これも、どこかで妥協する類のものではあると思うが。悩ましいことである。
 編集の仕事というのは、時間をかけ心を込めて行えば、自ずからみごとな果実が成るものだと思う。だが、この時間というものが、なかなか自由にならないのが世の常である。もっとも、現役を引退した私には、腐るほどに時間があるわけだから、その適任者のはずではあるのだが。



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