日鳥章一様

 なかなか素晴らしい装丁ですね。奥行きがあって立体感がある。美術作品らしい水色の作品もいい感じです。少し帯に隠れているところが残念ですが、それも仕方のないことでしょう。表紙左上の軽自動車など日常の情景がさりげなく僅かに挿入されてあるのも良いセンスだと思います。

 ところで、作品はまだ読んでいませんが、2、3の作品を読んだ限りでは、さみしさの漂うのを感じます。何か、荒涼とした土地を彷徨う男の姿が見えるようです。私小説的であるとも思いました。何かあるべき思想を声高に語るのでも、ことばの面白さや勢いを追いかけるのでもなく。「荒地」を歩いている自身の姿を見つめる視線を感じます。ただ、そこでは私というものが、存立していない危うさのようなものも同時に感じます。
 「さみしさと存在の危うさ」がこの詩集のテーマのように思いましたが、全体を読み終えた訳ではないので、確かなことは言えません。全体を読み切った上で、改めて詩集の感想を認めたいと思っています。
 あとがきの「詩は私にとって生きることと同じもの」というさりげない文章に、それでは私自分はどうだったのかと、苦しい思いがして来ます。今は詩人でも無く、人の作品を読んで語る力も無い者に、大切な詩集をお送り頂きありがとうございます。作品を読み終え、感想が出来上がりましたら、またお送りします。とりいそぎ、御礼まで。
                                         2010.06.04



日鳥章一様

 第二詩集「水辺の朝」を頂戴しました。ありがとうございます。先日簡単な手紙を差し上げた後は、詩集を読まずにそのままにしてしまいました。やっと「水辺の朝」を読むことができました。詩集を読むときは、自分はその作品をどう読むかという「強迫観念」に襲われ苦しくなるので、なかなか詩集を読もうという気持ちが起きません。これは、日鳥さんの作品に限らず起こることなので気にしないで下さい。
 詩集の全体を通して寂寥感を感じました。とくに、詩集の前半の作品(作品名で言うと「歌うと」まで)にそのような思いを強くします。これらの作品群は、もしかしたら最近書かれたものではないでしょうか。これらの作品には、ほとんど人間の姿や影がありません。中盤以降の作品群が、人との対話によって成り立ち、人の匂いを感じさせるのに対して、これらの作品は作者の独白によって成り立っています。その中には人の影がほとんどありません。
 もともと人の生きるのは、ひとつは人との関係の中にであり、もうひとつは世界との関係の中にであると思います。人が前者に生きていると感じれば、人との交歓が濃密に歌われ、にぎやかで明るく闊達なことばが生まれるのでしょう。それにひきかえ、人が直に世界と向き合うときには、ことば少なに自己の存在を問うことばが、発せられるのだと思います。詩集の前半に現われるのは、人の温かい存在を無化することばの連なりであり、形や匂いを持たない水や炎や光などのことばでした。言うまでもありませんが、これらのことばは、確固とした形を持たないものの代表的な観念でありながら、存在というものの確かさを、どうしようもなく明らかにしてみせることばでもありましょう。ここに、詩集のひとつのテーマをみることができます。

透明で/自身の存在さえも見えない/永遠とは/光そのものなのか/僕にはわからない  「光の時間」
私は影ではない/光ではない 水ではない/私は確かに地であり/揺れる火炎である  「水炎」
水のことを考えると/この世の何ものからも開放される/僕自身が透明で美しい/存在になれる気がするのだ「光の水」

 人との関係の中で、自身の住む温かい場所を見つけられないとすれば、直に世界と向き合って、自身の実存を問うほか無いのだろうと思います。しかも、そこでは存在の意味を、是が非でも探し当てなければなりません。生きて在るということは、そういうことなのでしょう。水や炎や光というそれ以上に還元できないモノに託して自己を語ろうとするのは、今にも倒れ霧散しようとする自己を、最小限であっても確固としたものとして、そこにピン止めしようとする行為ではないでしょうか。人のあやうい存在を、確かなものにしようとする格闘がそこに繰り広げられているように見えます。このような作品群が生まれてきたのは、日鳥さんの来歴と深く関わるものと思っています。が、それをここで具体的に語るのは控えたいと思います。一般論として、家族を含む社会と十全に関係を保って来ても、最後には一人にならざるを得ない。死とそしてそれまで生きてきた世界と直に向き合うほか無いのです。

どのみち人は一人で生まれ/そして一人で死んでいく/たとえ心中しようとも/一人で死ぬことに変わりはないのだ  「雨の日、僕は鳥を食べている」

 ここまで書いてきて、私は詩集を自分の作品であるように、評してしまっていることに気付きました。そこに感じた人の孤独や疎外感は、私自身の感覚から生まれてきた徒花であるのかもしれません。日鳥さんの作品は、ひとつのキャンバスに幾つかの具象のフレーズを配置した抽象画であると見ることもできます。私は、ひとつひとつの具象のフレーズに囚われ、読み込みすぎたのかもしれません。詩集は、どれも朝を迎えようとする再生の光に満ちているともいえるし、特に後半の作品には、友人や家族との対話の中に、再生の光を取り戻しているように見えるからです。

 ほんとに、人の作品を、その作品の価値を誤らずに語るのは難しいなと思います。あまりに自分に引き寄せて読んでしまったような気がします。9月には、藍画廊で版画の個展を開くようですが、人が少ないときに、またこっそり出掛けてみようと思います。そうそう、三木卓さんの帯文はなかなか良かったですね。では、また。
                         2010.08.18 川崎英穂


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