10.04.06 栗の実


 もう15年以上も昔に見た夢の話である。自分に、ある政治的な嫌疑が掛けられ、旧日本軍の憲兵のような者二人に、村の外れで死刑を宣告される。誰が見てもこの死の宣告からは免れ得ない、絶望的な状況であることを自分は理解した。初めて現実の死と向き合わなければならなかったのである。自分がこの世から消滅し、同時に世界が自分の前から永遠に消失する。底なしの怖れが自身を支配した。その日は放免され、明日刑場へ出向くようにとの指示が出た。その夜、家族とどんな別れをしたのか、夜眠れたのかどうか、良く分からない。やがて、小鳥が鳴き始め白々と夜が開ける。自分は刑場に向かわなければならない。そこで死を迎えるのだ。どんな心境で家を出たのか分からない。言うまでもないことかも知れない。途中、ゆったりと流れる川の木橋を渡った。前方には、薄墨をひいた空の下に緑の田畑が静まっていた。橋の上から上流に眼をやったその時、河原に光るものがあった。何だろう。自生した樹木の梢に、そこだけ光るものがある。その正体はすぐ分かった。栗だ。黄金色の毬(イガ)が開き、艶やかな大粒の栗が稔っていた。ほかにも二つ、三つと毬が開き栗の実が満たされている。今まで何度も見ているはずの栗の実を、こんなに美しいものと思ったことはなかった。自分は橋の上で、感動のあまりその美しさに泣いた。そして、今まで味わったことのない充実感に満たされていくのだった。生きていることとは、こういうことだったんだと。今まさに自身の命が絶たれようとするとき、初めて命が生き生きとその輝きを見せたのだった。
 これは、夢の話だから変なところがある。なぜ死刑囚をその日に一時放免するのか、なぜそのまま逃げなかったのか、夜眠れたかどうかなど明日死ぬ者には瑣末なことだ、などなど。なぜこんな取るに足らない夢のことを記述したのか。それは、中島義道氏の著作『哲学の教科書』を読み始めたら、死に対する考察があり、国内のある死刑囚が、処刑の前夜とその当日に母親に向けて書いた手記1)に感涙したからでした。そういえば、自分も処刑されるという疑似体験をしたことがあったなあ、と古い夢を思い出してメモしてみたのです。だが、それはそれで済まなかった。中島氏の著作を読み進めて行くと、さらに驚くことが書かれてあったのでした。死が間近に迫ると、人には今までとは異なった感覚が生まれるというのです。「人生の大事と思われているものは取るに足らぬように見え、逆に取るに足らぬと思われていることが輝いて見えてくる。」2)とあります。これは、まさに自分の見た夢の解説そのものだったのです。中島氏は、フランクルの著作『夜と霧』から、明日をも知れぬ強制収容所の囚人が、以前の日常的なほんの些細な出来事に感動する様子を、その一節を引いています。
 フランクル氏の『夜と霧』3)は、確か読んだことがあるなーと思い出して、夜遅く書棚をガサゴソ探し出したのです。そしたら、あったあった。小さい書棚とはいえ、20年以上も前に読んだ書物を探し出すのは容易ではありません。だが、そういう時には不思議と見つかるものです。もう、夜11時近かったのですが、『夜と霧』からその引用部分を探し出すために猛烈に読み始めました。ですが、次第に眠気が支配してきて、その夜に引用箇所を探し出すことはできませんでした。次の朝、今この文章を書いていますが、書きながら中島氏の著作を読み直していると、『夜と霧』から引用した頁が、巻末にちゃんと掲載されていることが分かりました。中島氏の引用は独特で、引用符を打たない方法だったので昨日は気付かずにいたのでした。
 『夜と霧』の引用箇所とその周辺を読んでみて、もうひとつ自分の見た夢の「真実」を知ることになります。これは確信ではありませんが、私の見た夢は、この『夜と霧』に影響されて見たものではないかという推理です。みすず書房『夜と霧』の奥付には、1961年初版第1刷発行、1988年初版9刷発行とあります。私が読んだのはおよそ1990年頃だと想像できます。15年前の夢と書きましたが、少なくても夢を見る前に『夜と霧』を読んでいたことになります。この「人類の恐ろしい遺産」の強烈な印象によって、私の「栗の実」の夢が現れたと考えると、この不思議にリアリティのある夢の出所が理解できたような気がします。ちなみに、『夜と霧』から引用された当の箇所は、私の夢とは全く異なる情景でした。ただ、死の間際に、なんでもない日常の情景が美しく見えるというその一点だけに共通点があるのでした。
 15年以上前に自分の見た夢のルーツが、ある日自分の読んでいた書物を媒介にして推理できたとするなら、奇跡に近い気がしますがどうでしょうか。またそれは、自分の感覚や思惟そして手に取る書物がこの20年ほど円環を描いていて、なんら変化が無いことを示している、ということかも知れない。


1)『哲学の教科書』中島義道 講談社学術文庫 P33
2)『哲学の教科書』中島義道 講談社学術文庫 P232233
3)『夜と霧』V.E.フランクル 霜山徳爾訳 みすず書房 P125126


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