10.01.16  川の思い出1


 なぜ、そんなに沢登りが好きになったのかと考えても、はっきりした答えが探せる訳ではない。ものが好きになるのに、特別の理由が見つからないのは普通のことだ。だが、自分の場合には、少年期の体験と深く関わっているのではないかと思う。川での体験がいつの間にか潜在化し、50代で再び川と対面したときに、その喜びの体験が甦って来たのではないかと。
 まだ東京の阿佐ヶ谷にいる時分に、父親に連れられて多摩川へ川遊びに行ったのを覚えている。四歳か五歳の頃だと思う。そこが、多摩川のどこだったかはまるで分からない。ただ、強い陽射しでまぶしい河原に人が点々と居て、自転車の後に木の箱を載せたキャンデー売りがいたのを覚えている。これが、私が川と出合った初めての体験であった。広い河原とその上に開ける青い大きな空が、強く印象に残っている。住居や商店の連なる市街地に暮らしていた自分にとって、そこは異空間のように思えただろう。日頃の生活の中では体験できない圧倒的な水の流れもそこにあったはずだ。だが、どうしたわけか水の記憶だけが全く欠けている。
 明治生まれの父は、現在の岩手県花巻市の出だったが、少年期からは東京で過ごしたようである。東京の旧制中学を卒業して厚生省へ就職した。昭和元年の頃である。ところが、父は何らかの理由によって、20年以上勤めたあと、岩手県盛岡市の国立施設へ転勤になった。世に言う左遷であったのだろう。父親は早くに亡くなったので、その辺の事情を聞く機会も無く過ぎてしまった。その盛岡市郊外の官舎に住んでいた頃、父親に連れられて大きな川へ遊びに行ったのを覚えている。雫石川(しずくいしがわ)である。砂利道の振動に尻を叩かれながら、父親の漕ぐ自転車の荷台に座っていた自分を記憶している。小学一二年生の頃の初夏だったと思う。稲の葉が一斉に伸びた広い田んぼの中に、曲がりくねった農道が川まで続いていた。だが、この最初に雫石川に連れて行ってもらった時も、川の流れで遊んだ記憶が欠けている。おそらく、まだ流れの中で水と遊ぶような年齢に達していなかったためだろう。物量としての水を意識しなかったためだろうと思われる。
 川へ行った帰りに、秋田街道端の民家のようなところで、うなぎをさばくのを見た覚えがある。くねるうなぎの頭を釘で刺し、尾を持ってうなぎの白い肉を捌く光景は印象的だった。半身になってもくねるうなぎを、不思議そうに見つめていた。そのうなぎを買って帰ったのか、ただ見ていただけだったのか、もうどちらとも分からなくなっている。当時、川の近くでは、天然のうなぎを捕獲して生業にしていた家も有ったのである。もう50年以上前の話である。
 盛岡市の西を流れるこの雫石川は、市街を貫いて南下する大河北上川へ西側から注いでいた。秋田県境の山々にその水源を発する大きな流れで、河原を含めた川幅は200mほどはあっただろう。小石の敷き詰められた広い河原を、幾つにも分かれて蛇行するその流れの美しさは格別だった。今日、沢登りで話題になる葛根田川は、その最大の支流である。中学へ進んだあと、雫石川では、強烈な川遊びの体験をすることになる。だが、私の川での体験は、その前の小学生の時代に始まる。
 母親は、大正の生まれで岩手県南の江刺市の出であった。農家の長女に生まれた母親は、地元の高等小学校を出た後、東京に出て当時としては珍しい歯科技工士の仕事をしている。昭和10年以降の頃である。当時の、颯爽とした母親の写真を一度見たことがある。静かな笑みを含んだその顔には、職業婦人としての誇りがあふれていた。東京に居て父親とどのような出会いをしたのか、ついに聞かずじまいに終わってしまったが。
 母親の実家のすぐ先には、小さな川が流れていた。人首川(ヒトカベガワ)という珍しい名で、北上山地の南に位置する種山高原を水源とする清流である。小学生の頃は、夏休みになると母親の実家へ長いこと泊りに行くのが習慣になっていた。川での遊びが第一の目的だった。午前中は気温が低いので、夏休みの宿題帳をやったり絵日記を描きながら、気温の上がるのを待つ。部屋の寒暖計が25℃になるのを待って、私たち兄弟と従兄弟が川へいっせいに飛び出してゆく。人首川は、水の煌く瀬があり、小砂利の川底が見通せる瀞があった。片方の岸辺には、川辺の青い樹木が被った暗い淵があった。何物かがそこに潜んでいて、近付けば足を深みに引かれるような不気味さがある。私達は、ゆったり流れる瀞を選んで水遊びに興じた。とはいっても、何か特別な遊びをするわけではない。上流まで水に抗って歩き、その後、水の流れに身を任せて下ってみたり、対岸の深い淵へ泳いで行って、足を引かれないうちに急いで浅瀬へ戻ってみたり、雑魚の走る川底のきれいな石を拾ったり、その石を深みへ投げて競争で拾い合ったりといった、他愛ない遊びを繰り返していただけだった。当時、プールなどという洒落たものは無かったので、身近に川のある子供たちは、皆同じようにしていたのだと思う。私たちが泳いでいた瀞のすぐ下流には立派な木橋がかかっていて、ときおり牛車が通ったり、村の人の日傘が見えたりした。夕刻になれば、叔父が瀬に向けて竿を振り、幾匹ものオイカワを釣り上げた。串刺しにして、囲炉裏の遠火に焙るのである。夜のとばりが下りれば、川端の草むらに弱々しく点滅する幾つもの光が点った。今思えば、のどかな田園の風景であった。


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