09.12.17  沢と看病


 何故こんなに沢が好きになってしまったのか、と考えてみる。たぶんそれは、沢へ行ったからである。丹沢での沢歩きが無ければ、沢を毎週歩こうなどと考えることは無かっただろう。だが、それでも疑問は依然として残る。何故丹沢に出向いたのかということと、何故沢が好きになったのかという点である。前者は、よく考えれば思い当たる節がある。
 丹沢へ出向いたのは、たぶん近くだったからだ。丹沢でなくても山を歩ければどこでも良かったのではないかと思う。静岡県の最も神奈川県寄りに住む私にとって、地理的、交通の利便性によって丹沢が選ばれたに過ぎない。しかし、それがその後の自分の行動に決定的な影響をおよぼすことになった。その頃は、ひとつの会社へ勤め30年近くが過ぎ、すでに50歳になっていた。仕事は面白かったし自分の性に合っていた。だが、その頃は自分がどのような定年を迎えるのかが、おぼろげながら見えてくる時期でもあった。若いときに机を並べた友人たちは、出世して会社の要職に就き経営陣になっていった。うれしいことである。自分といえば、相変らず会社にインパクトを与えない開発を続けていたに過ぎない。だが、面白かった。定年間際まで、開発のことが頭のほとんどを支配した。最後に研究した小さな国家プロジェクトは傑作だった。簡単に言うと「叩いても音のしない、音を吸収してしまう鉄を発明する」というものだった。これについても、いつか記してみたいと思う。丹沢へ向ったのは、自分の会社でのポジションが、客観的に見えてきたからである。出世するというサラリーマンの究極の目標に、明らかなレッドマークを付けられたからである。当時は意識していないにしてもそうだったと思う。
 実は、丹沢に、山に向った理由はもうひとつあった。家人が重い病に罹ったことである。仕事をしながらの昼夜問わずの看病で疲れ果てていた。だが本当のところ、疲れ果てていたという意識は思いのほか少なかったのだ。自分たちを客観視する余裕を欠いていたのだった。家人の症状は劇的に進行し、小康状態を得るまでに数年以上を要した。看病に夢中だった。仕事は相変らず忙しかった。幸運にも、開発や研究の仕事というのは一日二日仕事を休んでも体勢にほとんど影響しない。看病と仕事が両立できた。芸は身を助けるということかも知れないし、自分が相当の出世をしなかったお陰であったともいえる。ありがたいことである。看病と山行きは一見両立しないように見える。相反する行為のようにも見える。だが、私は病める家人を置いて毎週丹沢へ出掛けたのである。家人は、私が単独で沢を歩いていることを知っていたため、都度必死になって私を止めようとした。「行かないでくれ」と言うのである。もしものことがあったなら、病の自分はどうなるのかという著しい不安が有ってのことだろう。だが、私は布団に横になる家人の手を振り払って沢へ出掛けたのである。今でも、そのときのことを思い返しただけで目頭が熱くなる。
 これははっきり言えることだが、私たちは沢に救われたのだった。何年にも及ぶ看病によって、私も実際は疲れていた。看病そのものに耐えられなくなっていたのかも知れない。実は、そのあたりの記憶がはっきりしない。とにかく、沢へ行かないでは済まなかったのである。今で思えば、それこそ病人のようだったのだ。鬼気迫る形相をしていたかも知れない。だが、入渓したときに足元へ染み込んでくる水の冷たさの感覚、春の色淡い若葉が広がるときのやわらかい音、岩に当たる水の造り出す前衛音楽、周囲に感じる獣の匂いと気配、そして、難しい滝の登攀とそのぎりぎりの高巻きは、すべての現実をリセットするのであった。真剣にその場に対処しなければならないがために、家人のことも看病のこともそして仕事のことも、すべての現実が頭から消えて行くのであった。お昼過ぎに、くたくたになって稜線へ着いて、やっとまた現実と向き合うことになる。「稜線へ着いたよ。あとは安全な尾根を下るだけだよ」、と家人に携帯で連絡するのだった。その後、風のように尾根を下って東名高速を飛ばして家へ向った。なぜなら、夕食は自分が作らなければならなかったからである。
 週末に沢に熱中することによって、自身の精神の安定を維持することができた。そして、それが家人の看病に向わせる力になった。私たちは沢によって確かに救われたのだった。これは、感謝しても感謝しきれない沢への私の思いである。

 なぜ、丹沢へ出向いたのか、なぜ沢が好きになったのかについて記そうと思ったが、前者の問いに答えたに過ぎない。いずれ本題を認める機会があるものと思う。


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